少女キネマに対する感情的感想メモ

とても中二病臭いタイトルで、これから書く文章も中二病みたいになるのだろうが、とりあえずのメモとして残しておく

 

久しぶりにいい本に出会った。心の奥から得体のしれない感情が沸き上がってくる。そんな感情の一部をここに書き留めたい。こういうのは熱が冷めたら終わり。得体のしれない感情は再び湧き上がってくることは殆ど無い

 

小説を1本書き上げるまでの小説家になりたさが、水上の楼閣だとするなら、書き上げてからは、雲上の楼閣

この本を読んでようやく、砂上の楼閣になったきがする

 

この本の主役は十倉であろう。が、主人公は才条であると思います。最初に登場してきた才条のシーンから、いっきにこの才条という人物に引き込まれた。十倉の妄想の中に出てくる才条も俺にとって本当の才条であり、手紙のシーンでも才条の様子がありありと思い浮かんでくるようである。

十倉とさち、およびその他の主要人物もすべて才条の引き立て役に過ぎなかった。

 

この本は、読みきらないほうがいいかもしれない。という考えが3章を読み終えて出てきた。少女キネマと同様、この本も未完で終わり、少女キネマの落ちは永遠に心のなかで想像するしかない。というのも非常に良かったと思う。

ただ、古書店に居残っていた十倉がみたイメージはものすごく良かったし、十倉監督によって撮られている少女キネマの一連の流れも本として申し分なく、最終的に本に書き表された少女キネマのラストも良かった

ただ、本としてのラスト。及びに、少女キネマが撮られた理由が気に入らない。

少女キネマが撮られた理由は、才条が動く理由として至極最もなものであった。が、やはり俺の中の才条は、そんな理由がなくてもあの映画をとってくれる人物であって欲しかった。

そして、ラストにでてくるさちだが、本当に出す意味はあったのかが知りたい。個人的には、十倉監督には失恋した状態で才条に近づいて欲しかった

 

他にも書きたいことはあるが、文にして表そうとすると言葉が出てこなくなり、熱が冷めてしまった。あとでこの文を読んで自分が赤面をするハメになるだろうと思う。

だが、この本で俺は夢との向き合い方や、創造主になることの難しさを感じ取れた気がする。